和宮のお墓にまつわる謎。いくつもの噂が絡みつく皇女の人生とは

歴史
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和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)は、仁孝天皇の第八皇女として京都に誕生します。

孝明天皇の異母妹であり、明治天皇は甥です。そして、江戸幕府14代将軍である徳川家茂の正室として知られています。

江戸幕府がなくなり、新政府が始まるという時代を生きた和宮。

そんな和宮には、いくつもの都市伝説のような話が語られています。実際のところは、どうだったのでしょう。

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和宮にまつわる噂とは

彼女には実は左手がなかった、本当は替え玉だったといった噂があります。

左手がなかったと言われる根拠は、肖像画でいつも左手が書かれていないからです。

さらに、1958年から1960年にかけて行われた、徳川家の墓地発掘調査でのこと。

和宮のお墓も調べたのですが、どうしても左手の手首から先が見つからなかったという報告があります。

このことから、彼女には左手がなかったのではないかと囁かれているのです。

和宮親子内親王の肖像画/wikipediaより引用

肖像画では、確かに左手は見えませんね。

和宮の替え玉説とは

もうひとつの噂である替え玉説は、有吉佐和子さんの小説である「和宮様御留(かずのみやさまおとめ)」の中で語られています。

この小説は、ドラマにもなっているので知っている人は多いのではないでしょうか。

この小説の中で、和宮は江戸にお嫁に行くのを嫌がったとあります。そこで和宮の替え玉を立てることに。

その女性を和宮として降嫁させているのですが、有吉佐和子さんはフィクションではなく、小説は真実だと語っています。

替え玉となった人の関係者に聞いた、日記の文体が変化した、だから事実だと主張している有吉さん。

ですが、歴史学者からは反論されています。

さらに、家茂のお墓を発掘したときに見つかった女性の髪と、棺に納められた和宮の髪の色が一致しないとも言われていることから、替え玉説が囁かれるようになりました。

徳川家の墓所発掘調査に関わった著者が、「骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと」という本を書いています。

この著者宛に、和宮は明治4~5年頃に賊に襲われて自害したのだという手紙が届いたそうです。

和宮は明治10年に32歳の若さで亡くなっていますが、この手紙が事実なら政府は和宮の最期を隠していたということになります。

実際のところは、替え玉説の真偽はわっていません。和宮の最後を隠す意味があったのかどうかを考えると、ただの噂ではなかったのかなと思います。

和宮が家茂に嫁ぐまで

和宮は、幕府と朝廷の橋渡し役として、徳川家に嫁ぎました。

このときすでに、皇族の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約していた和宮。

ですが、兄である孝明天皇の強い説得によって、降嫁を受け入れたという悲しいエピソードがあります。

当時は幕末で、外国との関係で分裂した国内をまとめるための政策が行われていました。

和宮も家茂もすでに許婚がいましたが、強引に2人の結婚を推し進めた理由は、政治的な問題があったからです。

和宮は幕府と朝廷の「公武合体」の役割として、日本史上初の天皇家から武家に嫁いだ内親王になります。

江戸時代において、将軍および将軍世子の正室は、3代徳川家光の正室孝子以降、宮家・摂家などから迎えるのが習わしでした。そのなかでも異例だったのは、皇女との婚姻です。

引用元:企画展「和宮 江戸へ ―ふれた品物 みた世界—」 – 江戸東京博物館

結婚話が出た当初、和宮は生母・観行院(かんぎょういん)とともに激しく抵抗しました。

当時の皇族からすると、京都を離れ江戸に下ることは考えられなかったのです。

しかし、兄である孝明天皇から、断ればお前は尼になるしかないといった圧力をかけられます。

孝明天皇も、立場や国の状況から仕方がなかったのでしょう。

そして和宮は勅命を受け入れることを決意し、降嫁することになります。

嫁いでからの和宮は、江戸城でも優美で上品さを貫き通すことに。ただ、13代将軍である家定の御台所だった天璋院篤姫の反感を買い、大奥で嫁姑問題を引き起こすのです。

ですが、後に天璋院篤姫と共に江戸城無血開城に尽力したことで、和宮は歴史に名前を残しています。

嫁いだ当初は仲が悪かったと伝わっていますが、晩年はお互い親しくしていたそうです。

いろいろな苦難を乗り越えたことで、戦友みたいな関係だったのかもしれませんね。

和宮の家茂への想い

和宮は、政治に利用された悲しい宿命を背負った女性です。

そんな和宮ですが、政略結婚ではあったものの、夫である家茂との仲は良かったと伝わっています。

その証拠に、和宮のお墓から出てきた副葬品に、「烏帽子に直垂姿の男性が映った写真」があったそうです。

残念ながら発掘したときの保存状態が悪かったため、次の日にはただのガラス板になってしまったとのこと。

当時はガラス乾板という、ガラス板に写真を焼き付ける技術がありました。

この写真に写っていたのが、家茂だと確認はできていません。

しかし、和宮の遺言が「家茂の側に葬って欲しい」だったことから、写真は家茂だった可能性が高いと考えられています。

そして、家茂のほうも側室は持っていませんでした。和宮を想ってのことだったと、想像してしまいますね。

たった4年の結婚生活でしたが、2人は政治に利用されながらも愛情を育んでいたのではないでしょうか。

まとめ

和宮は、幕末という激動の時代を生きた人であり、政治に翻弄されながらも短い生涯を駆け抜けた女性です。

そんな和宮にいくつもの噂が立っていることは、不思議ではあります。

ですが、和宮のお墓から出た副葬品の少なさも、彼女の最期に何かがあったのだと想像させてしまうのかもしれません。

皇女として生まれ、徳川の人間として生きた和宮のお墓は、徳川家が代々眠る上野の増上寺に家茂と共に眠っています。

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