1905年に発表された夏目漱石の「吾輩は猫である」は、最初は読みきり作品でした。しかし発表後、かなり評判が良かったことから続編を執筆することになったのです。
「我輩は猫である。名前はまだない。」という冒頭部分は誰もが知っていると思います。そんな有名な物語とは、一体どんなあらすじだったのでしょうか。
夏目漱石「吾輩は猫である」のあらすじ
この物語は猫である「我輩」の視点から語られています。
珍野苦沙弥との出会い
生まれてすぐに捨てられた、一匹の猫がいました。彼には名前もなく、どこで生まれたのかなど検討もつきません。
そんな猫は、自分のことを吾輩と呼ぶのでした。
暗くジメジメしたところに捨てられていた吾輩は、生きるために迷走しているうちに珍野家(ちんの)にたどり着きます。
餌を求めて珍野家に入りましたが、そこではおさんという下女に追い出されてしまいます。
しかし、主人である苦沙弥(くしゃみ)によって家においてもらえることとなり、ここから吾輩の人間観察が始まります。
趣味は人間観察
吾輩は人間を観察することが好きで、いつも人間を見ていました。
例えば主人である苦沙弥は、多趣味で何にでも手を出しましたが、何一つセンスがなくからかわれることさえあります。
苦沙弥を取り巻く人々も皆どこか変わっています。
ホラふきの迷亭、理学者で話がつまらない寒月、真面目な東風、珍野家の宿敵である金田家の鼻子など、吾輩はその人々のことも面白いと思っていました。
様々な貴重な経験
吾輩は、琴の師匠の家の猫である三毛子と仲良くなります。三毛子と話すと心が晴れ晴れして生まれ変わったような気持ちになり、吾輩は女性の影響の大きさを知りました。
そんなある時、三毛子は病気で亡くなってしまいます。
それをきっかけに吾輩は世間が物憂く感じられて、不性猫となっていきます。
しかしそんなできごとも含め、珍野家に住んでいることで様々な経験ができることを感謝していました。
吾輩の最期
ついに主人である苦沙弥は晩年を迎えます。
そこで吾輩は、いつか命が尽きるのが万物の定理で、生きていても役に立たないのならば、早くあの世に行くほうが賢いのかもしれないと考えました。
気が滅入りそうになり、景気付けに飲み残しのお酒を飲んでみることにしました。
すると吾輩は酔っ払ってしまい、歩いているうちに水瓶に落ちて溺れてしまいます。やがて脱出を諦め、全てを自然に任せることにしました。
次第に体が楽になっていき、自分の運命を悟ったのでした。
感想
この小説の面白いところは猫の視点で物語が進んでいくところでしょう。猫同士の交流も興味深いですが、なによりも我輩による人間観察がとても面白いですね。
最期の我輩は溺れている状態でも冷静に自分を分析します。
このまま足掻いたところでどうにもならないのならもう何もしない、そんな選択をした我輩はそのまま自分の運命を受け入れますが、このシーンはびっくりしましたね。
なんだかんだで助かるのかなと思ってましたが、そのままで物語は終わってしまいます。
語り手の最期には驚きましたが、それでも落語のような雰囲気で身近にある出来事を猫の視点を通したストーリーは、ユーモアに溢れていると思います。