城の崎にてのあらすじ「生きているということ」

あらすじ
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志賀直哉「城の崎にて」は、大正6年に発表された短編小説です。作者である志賀直哉自身が事故に遭ったことから、生と死について考えた体験談が元になっています。

それでは「城の崎にて」の簡単なあらすじをご紹介します。

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志賀直哉「城の崎にて」あらすじ

物語は、主人公が事故に遭ったところから始まります。

城崎温泉での養生

主人公は、山手線にはねられて怪我をします。幸いにも背中に傷を負っただけで済んだのですが、養生のために一人で城崎温泉に出掛けました。

医者によると、2~3年の間「脊椎カリエス」にならなければ大丈夫とのことでした。

一人きりだったのですることもなく、読むか書くか、散歩をするかの毎日です。事故によって物忘れが多くなって頭もハッキリしませんでしたが、心はとても落ち着いていました。

しかし、一歩間違えれば命を落としていたことから、妙にあの世というものが身近に感じられるようになっていたのです。

生き物たちと自分の命

城崎温泉で過ごす中で、主人公はさまざまな生き物に出会うこととなります。宿泊している部屋の窓辺には、蜂が飛び交っていました。

しかしある日、一匹の蜂が力尽きているのを見つけます。その明くる晩の雨で、蜂は流されていなくなっていたのです。

また別の日には、川面を泳ぐネズミと出会います。首元には魚串が刺さっており、水面から上がれずにもがいていました。

周囲の人々はそれを見て笑ったり、石を投げたりして遊んでいます。それらの生き物たちを、事故に遭った自分と重ねあわせて、親しみを感じる主人公。

イモリと偶然の悲劇

城崎温泉に来てからしばらくして、今度はイモリに会います。主人公はそのイモリを驚かせようと、そばにあった小石を手に取り投げてみました。

イモリを狙う気は全くありませんでした。ですが、小石はイモリに直撃し、その小さな命を奪ってしまいます。

偶然にも生き物の命を奪ってしまった自分に妙な嫌気が差し、しばらくそこに座り込んで、生き物の淋しさを感じていました。

生きるということを考える

偶然にも命を落としたイモリと、偶然にも命拾いした自分、そして以前に出会った蜂やネズミたち。彼らと自分との差を考えると、それほどないのではないかと思えてきました。

それらは両極端にあるものではないのだと悟ったのです。

三週間の養生を経て、主人公は城崎温泉をあとにしました。それから三年以上が経ちましたが、彼が脊椎カリエスになることはありませんでした。

感想

ケガの療養に訪れた兵庫県にある城崎温泉で、主人公は生きることについて深く考察するようになります。

小さな命と出会うことで、生と死についての感覚を研ぎ澄まされていったのだでしょう。

生き物たちは小さくてもしっかり生きている、そして自分も同じように一生懸命生きようとしている。命に小さいもの大きいもないのだと、自分と彼らは同じなのだと理解するのです。

同じような体験をしないとわからないことって、たくさんありますよね。そういう経験を経て、主人公は今自分が生きていることの奇跡を自覚したのではないでしょうか。

生きているということは偶然の産物であり、とても貴重なことなのだと感じたはず。

そういう考えになると、きっとこれから先の人生、無駄のないように生きていこうとするのだと思います。

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