森鴎外の「阿部一族」は、大正2年に発表された短編小説です。物語は、江戸時代に実際に起こった阿部一族の悲劇を取り上げて創作されました。
大正元年、明治天皇に殉死した陸軍大将がいましたが、この作品は当時の世の中を反映させたような小説だと言われています。
そんな安部一族とは、一体どんなあらすじだったのでしょう。
森鴎外「阿部一族」あらすじ
物語は藩主の病状が思わしくないという場面から始まります。
藩主の逝去と後を追う家臣
肥後藩主である細川忠利の病状が悪化し、側近の者たちは次々と後追い自害をすることを願い出ました。
老臣である阿部弥一右衛門もまた、忠利の後を追って命を絶つ許可を請いましたが、忠利は昔から彼のことをけむたがっており、生きて新藩主を助けるよう遺言します。
そして、弥一右衛門への許可が出ないまま忠利は逝去し、側近だった18人の家臣たちが次々と自害していきました。
そんな中で弥一右衛門は忠利の遺言に従い、新藩主の光尚に奉公して以前と変わらず働くことを決意したのです。
許されなかった弥一右衛門の切腹
忠利の命令により自害することを思いとどまった弥一右衛門でしたが、周囲からは命を惜しんでいるのだという目で見られてしまいます。
あからさまな批判に耐えかねた彼は、阿部一族のうちの五人の子供を集めて、彼らの前で切腹を遂げました。
しかしそれは忠利の許可のないものであり、阿部一族は自害した18人よりも格下の扱いとなってしまいました。そのため家中の人々は阿部家に対してさらに侮辱の念を強めます。
度重なる阿部一族への恥辱
忠利の一周忌の法要の席で、日頃から藩の処分に不満を抱いていた阿部家の嫡子である権兵衛は、自らの髻を切って仏前に供え、武士を捨てる覚悟を見せました。
しかしそれは光尚によって非礼と咎められ、盗賊と同様の刑である縛り首とされてしまいます。
それを知った阿部一族の者たちは、権兵衛が無礼な行為をしたことには違いないが、切腹ではなく縛り首とされたことにひどく怒りました。
そして、次男である弥五兵衛の指揮のもと、権兵衛の屋敷に立て籠もることにしたのです。
意地をかけた戦いの末路
この一族の様子はすぐに城方に知られることとなります。藩は討手の軍を編成し、阿部一族の立て籠もる山崎の屋敷に向かいました。
安倍一族も武士の意地をかけて反抗しましたが、両者の壮絶な戦いの末、全滅させられることとなったのです。そしてその遺体は一人ひとり洗って吟味されました。
弥五兵衛が胸板に受けた傷は誰よりも立派だったことから、ついにその栄誉をたたえ面目を施されたのでした。
感想
今の感覚では分かりませんが、武士は名誉の為なら命さえ掛けることがよく分かる物語だと言えるでしょう。
誰も止めない殉死の場面には驚きますが、そういうことが当たり前の時代だったということですね。
そして主君に対して殉死の許可を貰わないといけない時代に、勝手に切腹した弥一右衛門を発端にして阿部一族は全滅するまでに追い込まれます。
許しもなく殉死するということは、自分がいなくなったあと一族がどんな目に合うかは、弥一右衛門も予想が出来たと思います。それでも不名誉な批判に我慢が出来なかったのでしょう。
武士とはきっとそういう生き物なのだと思います。