豊臣秀吉といえば、いくつもの歴史ドラマで登場する人物ですね。
好きな偉人ランキングの上位にいつもいて、尊敬する歴史上の人物としても名前が上がっていることがあります。
そんな秀吉はどんな人で、どういうエピソードがあったのか、今回は紹介していきましょう。
豊臣秀吉ってどんな人?
豊臣秀吉は、織田信長が成し遂げられなかった天下統一を果たし、大阪城で人生を送ることになった戦国武将です。
もともと秀吉は信長の家臣として仕えており、その能力はとても優れていたことで有名でした。
現在でも秀吉の人気が衰えないのは、身分制度が今よりも厳しい時代に、農民から天下人になったという功績にあるからではないでしょうか。
秀吉の名前の変化
秀吉は、幼い頃は「日吉丸」と呼ばれ、成長すると「藤吉郎」を名乗ったとされています。
貧しい身分の人たちは苗字がありませんでしたから、秀吉も当時は名前のみでした。
実は秀吉が最初に仕えた人物は織田信長ではなく、松下家だといわれています。その後に仕えるようになったのが信長です。
秀吉の名前は出世する度に、「木下藤吉郎」→「羽柴秀吉」→「豊臣秀吉」に変化していきました。
なぜ木下姓を名乗ったかについては、詳しいことはわっていません。
実の父から継いだ説、正妻である寧々の親戚説、最初に仕えた松下家からヒントと得て付けた説と。いくつかの説がありますが、本当のところは謎のままです。
羽柴姓は有名ですので、知っている人は多いはず。
この羽柴性は、同じ信長の家臣であった尊敬する丹羽長秀と柴田勝家から文字を貰ってつけていて、歴史ドラマでも度々描写されいます。
そして最終的には豊臣姓になるのですが、その前に平や藤原を名乗っていた時期もあるそうです。
実は指が6本あった?
秀吉の指は6本だったという話があり、これは古い書物から伝わっています。
2つの書物から発見された事柄なので、かなり信憑性は高いとのこと。その2つの書物というのは、「フロイス日本史」と「国祖遺言」です。
秀吉は多指症であり、その事実を隠すことなく天下人になりました。信長から「六ツめ」と呼ばれていたエピソードを、書物は伝えます。
1. 多指症とは
正常より指数が多い状態をいいます。過剰な指が完全な指の形をしているものから、小さなイボのように突出しているものなど様々なタイプがあります。引用元:多指症|日本形成外科学会
しかし、天下を取ったあとに、秀吉は多指症の事実を消そうとしたとのこと。
そのため、秀吉が多指症だったことは、長いあいだ信じられていませんでした。
ですが、今では指が6本あったのは事実とする説が、有力になっています。
正妻ねねとのエピソード
豊臣秀吉は、妻である寧々をとても大事にしたそうです。
女好きで有名なイメージがある秀吉ですが、寧々には頭が上がらなかったと伝わっています。
もともと寧々の身分が上で、あの気難しい信長に対面したときに「良い娘」だと言われていることからも、すてきな女性だったことが想像できますね。
そんな寧々と結婚できたのに、浮気しまくりだった秀吉。その浮気に怒った寧々に、関して面白いエピソードが伝わっています。
秀吉に腹を立てた寧々は、なんと信長に自分の気持ちを訴える手紙を送っているのです。
そしてさらに驚きなのが、「あのハゲネズミ(秀吉)め、お前みたいな美人な嫁さんがいるのにけしからん」という内容の返事を、信長が送っているというからビックリ。
気安いイメージのない信長ですが、ちゃんと寧々を立てながら秀吉にも戒めを込めた内容になっていることが凄いと思います。
秀吉の家族関係
秀吉は、家族思いの武将だといわれています。
ですが、実の妹である朝日姫を無理やり離縁させ徳川家康の正室に送り込んだり、母親を人質として差し出したり……。
とても家族思いとは言えない行動もしてきました。
しかし、戦国時代ですから、身内を人質として送り込むというのは、今では考えられなくても仕方がないことだったのかもしれません。
それでも根は家族を大切にした武将だと伝えられています。
そして浮気をたくさんした秀吉ですが、あまり子宝には恵まれませんでした。
多くの側室がいましたが、生まれた子供は4人。そのうち幼くして3人が亡くなっています。
最後の一人が豊臣秀頼で、大阪城が落城したときに母親の淀君と共に自害しました。
秀吉の戦い方
豊臣秀吉は、武将なのでやはり敵と戦うのが仕事です。ただ、秀吉は他の武将とは違う戦い方をしています。
秀吉の場合、極力人を手に掛けなかったといわれているのです。
秀吉自身、「人を斬るのは嫌い」と語っていたことは有名な話。
実際の戦闘では、水攻めや兵糧攻めなどを行っていたようです。戦いといえども、亡くなる人が増える状況は避けていたと伝わっています。
この水攻めや兵糧攻めのメリットとしては、味方の犠牲者を少なくすること。
敵が早期に降伏することで、敵も生かして最終的には味方につけることもできたそうです。
まとめ
「人たらし」とも呼ばれる秀吉は、言葉巧みに周りの人たちを持ちあげて動かし、天下人にまで上り詰めました。
そんな秀吉は名前がいろいろ変化したり、正妻を大事にしていたりといったエピソードがあります。
しかし、息子である秀頼時代に豊臣政権は儚く散ってしまいます。その後は徳川の世になり、その治世は300年続くのです。
それでも秀吉が現代に残す功績は大きいでしょう。
農民から天下を取った秀吉には、生きていくために見習うべきことがたくさんあると思います。
上へ進みたいのに失敗ばかりすときは、秀吉の人生について考えてみると、何かヒントが得られるかもしれませんね。