菅原道真の祟りとは?怨霊伝説が信仰へと結びつく

歴史
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菅原道真は濡れ衣を着せられ、大宰府へ左遷されます。無実を訴えながら失意の中、59歳で亡くなってしまいますが、その後は怨霊となって大活躍しました。

菅原道真さんは日本三大怨霊の一人に数えられるほどの超大物なのです。

その道真さんが怨霊となって祟りを起こしたといわれているのですが、いったいどんな風に祟ったのか、今回は紹介していきますね。

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菅原道真の祟り

もともと学者である道真さんはとても頭が良くて、だから学問の神さまとして祀られているのです。

だけど、その頭の良さが生前は僻みや妬みを買うきっかけになり、濡れ衣を着せられたといわれています。

道真が亡くなってから、朝廷にはいくつもの怪異が襲いかかります。

天変地異が起こり、ライバルだった藤原時平、さらに当時の天皇家や政府要人たちが次々に亡くなります。天皇が政務を行っていた清涼殿では、雷が落ちるという事件がありました。

ではここで、道真さんの祟りによってお亡くなりになってしまったとささやかれている人の名前を書き出してみましょう。

ちなみに道真さんは901年に左遷、その2年後の903年に亡くなっています。

  • 906年、藤原定国(ふじわらのさだくに)、左遷のきっかけを作った人、享年41
  • 908年、藤原菅根(ふじわらのすがね)、左遷のきっかけを作った人、落雷で享年53
  • 909年、藤原時平(ふじわらのときひら)、道真左遷の首謀者、享年39歳
  • 913年、源光(みなもとのひかる)、道真後任のポジションの人、鷹狩りの最中に沼にはまって行方不明、享年69歳
  • 923年、保明親王(やすあきらしんのう)、時平の甥、享年21
  • 925年、慶頼王(よしよりおう/やすよりおう)、保明親王の息子、わずか5歳

930年、清涼殿落雷事件で、政府要人数人が亡くなりケガ人多数。

この事件で亡くなった中に藤原清貫(ふじわらのきよつら)がいます。この人は、時平の命令で大宰府に左遷された道真を監視していたそうです。雷に胸を焼かれていたというから恐ろしい。

けっこうな被害者ですね。親王までいることから次は天皇じゃないかなんて噂もされていたことでしょう。しかも祟りはこれだけではなく、疫病や日照りも続いたのでさぞ怖かったと思います。

清涼殿落雷事件のあと、当時の天皇である醍醐天皇は凄惨な現場に居合わせたショックからか、3ヵ月後に崩御しました。

さぁ大変、これは道真の祟りに違いないと、都では大騒ぎになったのです。

朝廷は祟りを鎮めるため、濡れ衣を晴らして位を与えました。そして清涼殿での落雷から雷神(天神)と結びつけられて、全国に天神信仰が広がっていったのです。

もともと頭が良かったことで、学問の神さまとしての要素も加わります。

天神信仰と学問の神さま

京都の北野には、もともと火雷神が祀られていました。雷で祟りを起こすと信じられていた道真を火雷神と結びつけ、この地に神社を建てて鎮めようとしたのが北野天満宮の始まりです。

菅公は、古来より聖地・霊地とされてきた平安京の北野の地に鎮まった際、もともとこの地に祀られていた火雷神(摂社火之御子社)の信仰をも取り込み、それらと結びつけて考えられるようになりました。

引用元:北野天満宮と牛 – 北野天満宮

さらに亡くなった場所である大宰府にも安楽寺天満宮が、のちの太宰府天満宮が建立されます。

987年には当時の天皇により、北野天満宮天神という称号を送られて、菅原道真は神さまとして崇められるようになりました。

「受験のときは天神さん」といわれるほど親しまれている天神信仰ですが、始まりは怨霊を鎮めるためだったのです。

そんな天神信仰も人々に認知され、今では全国に存在します。中でも日本三大天神さんに数えられているのが、京都の北野天満宮、福岡の大宰府天満宮、山口県にある防府天満宮です。

もともと天神とは、特定の神さまではありませんでした。ですが、道真と結びついてからは、天神さまといえば菅原道真を指すようになります。

そして天神さまから、牛を思い浮かべる人がいるはず。それは、道真が牛と縁があったと伝わっているからです。

臣下だった味酒安行(うまさけやすゆき)が、亡くなった道真を牛車に乗せて運んでいたら、急に牛が動かなくなるということがありました。

この現象はきっと道真公の思いがここにあるのだと判断して、その場所に埋葬されたというエピソードがあります。

天満宮の臥牛/Wikipediaより引用

さらに午年だった、午がよくなついた、左遷されたときは午が泣いて見送ったという話まで伝わっています。そのため天神さんでは午を神さまのお使いとしているんですね。

御霊信仰と菅原道真

歴史上、非業な亡くなり方をした人たちを、怨霊として祀る風習が日本にはあります。

御霊信仰(ごりょうしんこう)といって、「神さまとして祀るから祟らないでおくれ」という信仰が、平安時代から現れるようになるんですね。

そして平将門、崇徳天皇そして菅原道真を日本三大怨霊と呼びます。

他にも悲運に遭われた方はたくさんいましたが、なぜこの3人を三大怨霊として数えているのでしょう。

考えられる理由は、おそらくインパクトが大きかったからだと思います。まぁ、日本人は三大ナントカって呼び方が好きみたいなので。

三大天神さんとか、三大祭りとか、三大温泉とか。三大八幡宮とかもあります。そういえば三種の神器とかも。日本には3という数字に纏わる何かがあるのかもしれません。

怨霊と呼ばれた方たちは他にもたくさんいます。有名なところでは早良親王や崇徳上皇、安徳天皇や後醍醐天皇などが挙げられます。

こうして名前を少し並べてみると、天皇家って怨霊をけっこう排出しているんですね。

まとめ

崇徳天皇や平将門は、今でも恐れられているイメージがあります。だけど、道真に関しては、学問の神さまの印象しかないですね。

自分を落とし入れた関係者をほぼシメてスッキリしたのかもしれません。

菅原道真の祟りはピンポイントにターゲットを絞った上で天災まで引き起こしているので、かなりの強者であるでしょう。

日本三大怨霊として、学問の神さまとして、これからも我々下々の者を見守ってくれるはずです。天満宮に行く機会があったら、道真の苦悩を少しは考えてみるといいかもしれません。

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