宮沢賢治は数多くの詩や童話を世に残しています。だけど、あまり知られていないことに、実はほとんどの作品は彼が亡くなってから刊行されました。
おそらく『銀河鉄道の夜』が一番広く知れ渡っているはず。この物語でさえ、賢治の没後に発表された作品です。
37歳で生涯を終えるまでに出版された作品は、『春と修羅』と『注文の多い料理店』の2作品だったため、亡くなった頃はほぼ無名でした。
そんなほとんど知られていない作家が、今のように人々に親しまれるようになったのはどうしてなのか、不思議ですよね。
宮沢賢治と『銀河鉄道の夜』
生前の宮沢賢治はどんな人物で、どんな風に「銀河鉄道の夜」は描かれていったのでしょう。
教師時代に創作活動を開始
子ども時代から童話に親しんでいた賢治は、中学にあがると哲学書や短歌作りに夢中になっていきます。そして教師となり、教職中に詩の創作を始めます。
その後、詩集『春と修羅』を自費出版、『注文の多い料理店』を発表します。このころ詩人である草野心平と手紙での交流を始める賢治。
草野心平は生前の宮沢賢治を評価していた数少ない人でした。彼の存在によって、後に賢治の作品が多く出版されるきっかけとなります。
賢治はしばらくして教職を辞め、芸術活動に没頭していきます。いくつかの雑誌に詩を掲載していましたが、急性肺炎になり、自宅での療養を余儀なくされるのです。
肺炎により37歳で急逝
ですが、療養中も創作活動は行っていました。この時期、手帳に『雨ニモ負ケズ』を書き留めています。
雑誌や新聞に寄稿を繰り返していましたが、1933年(昭和8年)37歳の若さで急逝することに。急性肺炎でした。
亡くなった直後から、賢治の作品を評価していた人たちの尽力によって、いくつかの作品が発表されていくのです。
特に、前述した草野心平は、賢治の作品を世に発表した功績が高く評価されています。
おそらく草野心平がいなければ、これほど宮沢賢治の作品が有名になることはなかったのではないでしょうか。
没後に刊行された作品たち
『銀河鉄道の夜』をはじめ『風の又三郎』や『よだかの星』、『セロ弾きのゴーシュ』といった数代表作は、すべて没後に刊行されました。
宮沢賢治は創作物をよく手直しすることで知られており、見つかった原稿には何度も書き直したような様子が伺えるそうです。
おまけに生前に作品としてきちんと発表されたものが少なく、ほとんどが亡くなってから見つかった作品でした。
そのため、空白があったり途中のページがごっそり抜けていたりしています。
「永久の未完成これ完成である」とは、宮沢賢治が『農民芸術概論綱要』の中で残している言葉です。
そして『銀河鉄道の夜』は未完成で発見されており、その残された原稿を元に何度も改定されています。
銀河鉄道に思いを馳せる
この物語は主人公が孤独に苛まれている空間から、ふと気づくと親友と銀河の旅に出るシーンから始まります。
銀河を渡る列車に乗り、さまざまな人たちと出会って不思議な体験をする主人公。
それから独りぼっちの現実に戻ってみると、一緒に旅をした親友はいなくなっていました。だけど、ほんの少しの希望が、主人公を包み込んでいるのです。
そんな不思議で美しい幻想的な物語に、読んでいると引き込まれていきます。
この作品が未完成なら、いったい完成するとどうなっていたのだろうか。そんなことに想いを馳せてしまうほどの魅力があります。
彼の世界観には独特の雰囲気が漂い、何十年立っても色あせることはありません。
たとえ未完成の作品でも素晴らしいことには変わりなく、今この瞬間も誰かの心を感動させていることでしょう。