源頼朝のエピソード。奥さんに愛人の家を破壊された?

歴史
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源頼朝(みなもとのよりとも)といえば、「いい国つくろう鎌倉幕府」の人だという印象が強いと思います。

しかし、鎌倉幕府は1192年に開かれたと学校で習いましたが、今は1185年になっているそうです。

そんな鎌倉幕府を開いた源頼朝とはどんな人物だったのか、気になるエピソードを紹介します。

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奥さんは嫉妬に狂い愛人の家を破壊?

頼朝を語るうえで、必ず登場するのは奥さんである北条政子さんですね。

頼朝亡き後に尼将軍として権勢を振るったことは、歴史の教科書でも習います。

そして、北条政子は嫉妬に狂い、夫の愛人の家を破壊したと歴史書は伝えているのです。

激しい女性だった政子

北条政子は、嫉妬深い女性としても知られています。この時代は愛人の下に通って、子供をたくさん残すことが武士の務めでもありました。

一般的に一夫多妻が普通だったので、政子の愛人への嫉妬心は当時でも珍しかったみたいです。

嫉妬を行動に移してしまうところが、後に尼将軍と言われる所以だったのかもしれません。

さらに嫉妬から起こった騒動を、「吾妻鏡(あずまかがみ)」という歴史書に記されるほどになっています。

歴史書に記されるなんて、ちょっと恥ずかしいような気も。ですが、それだけ政子は激しい女性だったということでしょう。

情熱的な2人の馴れ初め

そもそも頼朝と政子の馴れ初めもドラマチックです。

平治元年に起こった平治の乱によって、頼朝は平氏に捕まり伊豆に流されます。この伊豆の地で2人は出会うことに。

頼朝の監視役が政子の父親である北条時政だったので、許されない恋ですね。

だから最初は、父親も反対していました。しかし、最終的には2人を許して、頼朝の後援者になっています。

持ち前の情熱から恋を成就させているところが、政子の凄さです。

当時は流人だった頼朝ですが、その後、平氏を滅亡へと追い込み幕府を開いています。政子は人を見る目があったといえそうですね。

現代風にすると、無職から企業のトップに上り詰めた感じでしょうか。

頼朝の浮気に切れた政子

情熱的に結ばれた二人ですが、嫉妬が激しい政子の目を盗んでは、頼朝は愛人を作っていました。そしてある事件が起こります。

頼朝の浮気に激怒した政子は、自分の継母の父親・牧宗親(まきむねちか)に命じて、頼朝の愛人・亀の前(かめのまえ)の家を破壊してしまうのです。

寵愛をかけている女性に乱暴なことをされたのでは、頼朝も黙ってはいません。牧宗親を呼び出し責めますが、怒りの収まらない頼朝は牧の髷を切り落とします。

それに怒ったのが、政子の父親です。

自分の妻の父親に乱暴されたので、一族を引き連れて故郷である伊豆に引き上げたと、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」は伝えます。

歴史書にも記された事件

この一連の騒動は吾妻鏡に記され、「亀の前事件」と呼ばれています。

家を破壊された亀の前は、命からがら逃げのびたとありますが、政子の怒りは収まりません。

亀の前を逃がした源頼朝の右筆(当時の秘書役)である伏見広綱(ふしみひろつな)は、政子によって流罪となっています。

そもそも牧宗親は政子に命じられたので、この人を責めても意味がないのではないでしょうか。

まあ、頼朝は怖くて、政子本人には何も言えなかったのかもしれません。

さらに伏見広綱だって、主君に従っただけです。

だとしたら周りは、ただ巻き込まれた気の毒な人たちだったということ。

源頼朝の最期には謎が隠されている?


政治的に重要な戦争を勝ち抜き、見事に鎌倉幕府を開くことになる頼朝。ですが、実は頼朝の最期には、謎が多くつきまといます。

史実では、頼朝の死因は落馬が原因だと伝えていますが……。

歴史書にある謎の空白期間

しかし、歴戦の猛者である頼朝が、馬から落ちた程度で亡くなることなんてあるのでしょうか。

よほど打ち所が悪かったといわれればそれまでですが、歴史書「吾妻鏡」は空白の期間があることを伝えます。

頼朝から第6代・宗尊親王(むねたか・しんのう)までの出来事を記した正史『吾妻鏡』を見ると、頼朝の死から前後3年間の記録が欠落している。頼朝の落馬死が『吾妻鏡』に書かれたのは、死後13年後。

引用元:ライブドアニュースhttp://news.livedoor.com/article/detail/10548729/(リンク切れ)

この欠落した期間に頼朝は亡くなっていることから、もしかして「何かがあったのではないか」といわれています。

謎がナゾを呼ぶ

頼朝の死に関して、初代将軍が落馬で亡くなったなんて、みっともないから伏せておこうという説があります。

さらに、妻である北条政子が頼朝の最期に関わっていたのではないかという説も出ていて、まさしく謎がナゾを呼ぶ状態です。

落馬した直後ではなく、数日後に亡くなっていることも怪しく感じます。

吾妻鏡に頼朝が亡くなったことが記述されるのは、13年も経過してからというのも変ですね。

こうなると、権力を握っていた政子が怪しいのではないかといわれるのは、仕方がないのではないでしょうか。

相次いで亡くなる実子たち

頼朝亡き後、鎌倉幕府は頼朝の子・源頼家(みなもとのよりいえ)が2代目になります。

ですが、頼家が18歳で家督を継いだため、周りの人たちとの軋轢を生み出すことに。

頼家は周囲との関係を改善できず、追放されてしまいます。その後は、母親の実家である北条氏の手に掛かってしまう頼家。

そして3代目は源実朝(みなもとのさねとも)になりますが、この方も身内の手によって亡くなっています。

政子にしてみれば、2人とも可愛い我が子。

ですが、実子が相次いでいなくなったことで、政子の実家が権力を持つことになった事実はどうしても気になります。

何かしら陰謀めいたものを感じるのは、無理もありませんね。

まとめ

源頼朝のエピソードには、必ず正妻である北条政子が関わっています。

愛人関係での騒動を、歴史書「吾妻鏡」が伝えていること。頼朝の最期のナゾにしても、政子が怪しいという説など。

ただ、それだけ印象深くて、権力を持った女性を頼朝は妻にしたということなのでしょう。

ちなみに以前は「いい国(1192年)作ろう鎌倉幕府」でしたが、今の定説である1185年の語呂合わせは「いい箱つくろう鎌倉幕府」と覚えるらしいですよ。

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